さあ、行こう、君たち
6 Sep. 2019
雅楽に携わる者は、[五常](仁・義・礼・智・信)を学んで精神を養い、忠恕を心懸けて、慢心を慎むこと。
「楽家類聚」 芝祐靖

7月5日、芝先生が、お亡くなりになりました。
喪失感の大きさに戸惑うなか、8月8日、お別れの会に出向き、裏方のお手伝いをさせていただきました。
開場前には、上皇后さまも、いらっしゃいました。
まるで20年前、30年前に戻ったかのごとく、なつかしい方々と再会し、会場には、大御所も、これからの雅楽を担うであろう若い方々も大勢駆けつけて、お別れを惜しみました。
豊先生は、「嘉辰」をうたわれ、皆で唱和することができたのは、有難い機会でした。遠く離れていると、悲しみを共有できる人がいなくて、大変淋しいものです。
思えば、芝先生が楽部を飛び出した年、私は雅楽を始めました。すぐにご縁があり、昭和61年、宮田まゆみさんを中心とした演奏会で、ご一緒させていただき、その後、伶楽舎に入りました。
当時、雅楽はあまり認知されておらず、今のような学校公演という機会もなく、音楽といえば、西洋音楽一辺倒でした。信濃町の中華料理屋で、「邦楽教育を推進する会」の署名をお願いされたのを、覚えています。ついでながら、私が生まれた病院も信濃町にあり、伶楽舎と最寄駅が同じ。不思議なご縁があったようです。
芝先生とは、海外公演もご一緒させていただき、東西ドイツ統一のその日には、ちょうどフランクフルトに滞在中で、ホテルの人からシャンパンを振舞われたのも、貴重な思い出です。
プライベートでは、結婚式のパーティーにも出席していただき、ハガキには「翌日の国音講義の準備が順調に仕上ったら参加します。伶楽舎の才媛が相次いでお嫁に行って、嬉しいような、淋しいような」これは、珍しく、本音だったのでしょうか。
まことに申し訳ないことに、私は東京を離れ、古巣を去ることとなってしまいます。
芝先生とは、長々と話をすることはありませんでしたが、要所要所で、指針となるお言葉をいただいたように思います。豊先生のところに行きなさい、と紹介してくださったのも、芝先生でした。平成の初めごろでしたから、まだ若いお弟子さんは、豊先生のところには、いませんでした。豊先生の知識の情報量が、あまりにも凄まじいので、びっくりして芝先生に言ったら、
「当たり前だよ。笙の本流だもん」
と、笑われました。
近年では、鵜殿の署名活動が行き詰まった折、さりげなく助けていただきました。弁天町のホテルで、古巣メンバーと中華料理をごちそうになったとき、私の目をじっとごらんになって、原笙子さんのお名前を出されました。もしかして、原笙子さんをお手本として、地方で種を播きなさいと、おっしゃりたかったのでしょうか。
芝先生と合奏していると、双調とかによく出てくる、あの短い掛け吹き、あれは何というのでしょうか。あの音が聴こえるたびに、
「さあ、行こう、君たち」
と、聴こえるのです。
宮中から民間に舞い降り、同じ舞台に立ってくださった。ありえない、真横に位置するなどとんでもないと、お怒りを頂戴したこともありましたが、芝先生の笛の音は、いつも、はるかかなた、先へ先へと行きつつ、あそこまで一緒に行こう、と、言ってくださっていました。
関西に来てから、心のなかでずっと、「雅楽の神様」を、追い求めていたような気がします。
気がつくのが、あまりにも遅すぎました。「雅楽の神様」は、芝先生でした。そして、おそらくは、すべての雅楽人のなかに、そのかけらが。
心より、ご冥福を、お祈りいたします。

雅楽に携わる者は、[五常](仁・義・礼・智・信)を学んで精神を養い、忠恕を心懸けて、慢心を慎むこと。
「楽家類聚」 芝祐靖

7月5日、芝先生が、お亡くなりになりました。
喪失感の大きさに戸惑うなか、8月8日、お別れの会に出向き、裏方のお手伝いをさせていただきました。
開場前には、上皇后さまも、いらっしゃいました。
まるで20年前、30年前に戻ったかのごとく、なつかしい方々と再会し、会場には、大御所も、これからの雅楽を担うであろう若い方々も大勢駆けつけて、お別れを惜しみました。
豊先生は、「嘉辰」をうたわれ、皆で唱和することができたのは、有難い機会でした。遠く離れていると、悲しみを共有できる人がいなくて、大変淋しいものです。
思えば、芝先生が楽部を飛び出した年、私は雅楽を始めました。すぐにご縁があり、昭和61年、宮田まゆみさんを中心とした演奏会で、ご一緒させていただき、その後、伶楽舎に入りました。
当時、雅楽はあまり認知されておらず、今のような学校公演という機会もなく、音楽といえば、西洋音楽一辺倒でした。信濃町の中華料理屋で、「邦楽教育を推進する会」の署名をお願いされたのを、覚えています。ついでながら、私が生まれた病院も信濃町にあり、伶楽舎と最寄駅が同じ。不思議なご縁があったようです。
芝先生とは、海外公演もご一緒させていただき、東西ドイツ統一のその日には、ちょうどフランクフルトに滞在中で、ホテルの人からシャンパンを振舞われたのも、貴重な思い出です。
プライベートでは、結婚式のパーティーにも出席していただき、ハガキには「翌日の国音講義の準備が順調に仕上ったら参加します。伶楽舎の才媛が相次いでお嫁に行って、嬉しいような、淋しいような」これは、珍しく、本音だったのでしょうか。
まことに申し訳ないことに、私は東京を離れ、古巣を去ることとなってしまいます。
芝先生とは、長々と話をすることはありませんでしたが、要所要所で、指針となるお言葉をいただいたように思います。豊先生のところに行きなさい、と紹介してくださったのも、芝先生でした。平成の初めごろでしたから、まだ若いお弟子さんは、豊先生のところには、いませんでした。豊先生の知識の情報量が、あまりにも凄まじいので、びっくりして芝先生に言ったら、
「当たり前だよ。笙の本流だもん」
と、笑われました。
近年では、鵜殿の署名活動が行き詰まった折、さりげなく助けていただきました。弁天町のホテルで、古巣メンバーと中華料理をごちそうになったとき、私の目をじっとごらんになって、原笙子さんのお名前を出されました。もしかして、原笙子さんをお手本として、地方で種を播きなさいと、おっしゃりたかったのでしょうか。
芝先生と合奏していると、双調とかによく出てくる、あの短い掛け吹き、あれは何というのでしょうか。あの音が聴こえるたびに、
「さあ、行こう、君たち」
と、聴こえるのです。
宮中から民間に舞い降り、同じ舞台に立ってくださった。ありえない、真横に位置するなどとんでもないと、お怒りを頂戴したこともありましたが、芝先生の笛の音は、いつも、はるかかなた、先へ先へと行きつつ、あそこまで一緒に行こう、と、言ってくださっていました。
関西に来てから、心のなかでずっと、「雅楽の神様」を、追い求めていたような気がします。
気がつくのが、あまりにも遅すぎました。「雅楽の神様」は、芝先生でした。そして、おそらくは、すべての雅楽人のなかに、そのかけらが。
心より、ご冥福を、お祈りいたします。
